“ぼく”の世界に花束を
まず、はじめに
予告だけしてて書けてない記事がたくさんで申し訳ないです。
ボヘライブの記事はやっぱ楽しい、嬉しいみたいな明るい気持ちで書きたいけど、楽しいとか嬉しいにギアが入りにくい日々が続いてて…
ワーッと書いたあらすじみたいなのを書き起こす感じなんですが、そこの表現がハイじゃないと面白いレポにならんなと…
あんなキラメいたライブをボリュームダウンさせるような記事は書きたくないなと…
何ヶ月も経ってごめんなさい…
必ず、今年中には書き上げます…
ここから今日の話題です。
ここ一年なんともならないことがたくさんあって足踏みをしたり、考え事をしてる時間がすごく長い。
最近は考えることにも疲れてきてしまってた。
なんとか脳を動かさなくちゃいけないと本を読んだりしてたら、だんだん脳が麻痺してきて、楽しいとか面白いの前に薄モヤのようなフィルターがかかるようになった。
そのモヤを取ろうとはしてみるけどなかなか難しいもので、そのモヤは取れてくれない。
人と居る時や話してる時にはわりとそれが取れている気がする。
ある種のステイホーム病がたぶん続いてるんだと思う。
音楽を聴いて気持ちよくなっていても、ライブみたいって欲がチラついて素直に楽しめなかったりする。
新しい生活様式なんて言ってるけど変わることを強いられたと思う部分も正直ある。
結局、何が言いたいのか?というと
「コロナや社会の声には逆らえず呑まれてしまう恐ろしさ」がほとほと身に沁み過ぎたなと思う日々を過ごしているということ。
これに尽きる。
「我慢しろ」「アレやれコレやれ」は多いくせに
「対価」や報酬はまったくない
まぁ、パンデミックに関してはなくて当たり前なんだけども、社会的な還元要素、将来の自分達への還元はない気がしてしまう。
社会人って言うのは社会の奴隷として生きろ
と言われているような気がしてならない。
これは幼稚な、子供な意見だと思う部分もあるけど
「対価もないのに指示に従え」
はその子供な考えより都合がよすぎないか?とも思う。
社会とかって言葉を考えるとアレルギーみたくこうなってしまう自分もダメだ、愚痴っぽくなってごめんなさい。
でもまぁ、生活に関してはなんともいかないなりに日々の中で生活を工夫する楽しさを見つけたり、頭の中を整理する為に言葉をTwitterにワーッと流すのは楽しいなと思えるので、それなりに暮らしていきたいなと思ってます。
飯食うのが楽しみであれる限りは生きれるし、
まだまだ会いたい人、やりたい事や見たいものもあるしね。
死にたいも消えたいもないことはないけど
まだもっとキツい時に取っておいてやるよって感じですね。
髭のきみの世界に花束を
じゃないけど
もう色々とよくなることは
自力要素を除くとほぼほぼ、願い事に等しいなとさえ思う。
願い事をするだけの労力はもちろん払うけどね。
少しずつ周りの景色が冬から春に変わるように暖かく彩られるように願いながら
日々を生きてやろうと思います。
愚痴っぽい記事で申し訳ないです。
今日はここまでです、ありがとうございました。