生きてる限りは続くカルマ
ガラス玉ひとつ、落とされた
追いかけて もうひとつ落っこちた
ひとつ分のひだまりに
ひとつだけ残ってる
(BUMP OF CHICKEN カルマより)
ここんとこ意見のすれ違いの悲しいニュースがやたらと目につく。
こういう悲しいニュースは一回気にし始めたら気になり続けるから、あまり気にしたくはないけど自分の好きな漫画家さんまで傷つくような結果になってるので、どうしてもやっぱり気になってくる。
そんでふと流していた歌の歌詞が自分の意見とクロスした気がした。
BUMP OF CHICKENの名曲"カルマ"だった。
(っていうような若干堅苦しい話で、勝手な歌詞解釈が含まれているので苦手な人はターンバック!!!そう!後ろに!戻るんだ!そっちは前だ!君はいつも間違えるな!!!気ぃつけてかえれよ!!!)
僕のこういった意見のすれ違いの中で一番腹が立つのは
相手の意見を聞いてるように見せて、結局、揚げ足を取るように相手の意見の綻びを突いて自分の意見を言うことだ。
これは、論争であれば良い手とも言えると思う。
ただ、今回するべきだったのは論争じゃなく"話し合い"だから最悪手なんじゃないか?って思った。
正直、最初のテーブルについた時点でのお互いの考えのすれ違いはあるのかもしれない。
話し合いをしたい奴と論争で相手を打ち負かしてごめんなさいって言わせたい奴。
それじゃ、いつまで経っても変わらないし、被害者面をしたまま論争を勝手に始めた側が相手を殴り殺して終わりじゃないかと
それを見ながら新しい暴力なんじゃないか?って思った。
ルサンチマンとしてメタって殴ってるだけやないかと。
それが虐げられたものの取る手段なのかと。
虐げられる恐ろしさを知っておきながらそのマジョリティのとってきたような数の暴力や強い言葉を使うような暴力的な手段で返すのはいつまでも終わらない負の連鎖じゃないかと。
(事実、負の連鎖は一人の漫画家さんの首を絞めてインターネット上の活動の場をひとつ奪った。これからの執筆活動等にも支障は出るかもしれない。)
ともかく、この記事で僕が主張したいのは
"話し合わなきゃ妥協点は見つからない"
"このままお互いの食い潰し合いが続けばみんな苦しむだけ"
ってことです。
相互理解するにはやっぱり包み隠さず意見は交わさなきゃいけない。
ただ、それを伝える時に
威圧的にならず出来る限り相手を傷つけない、怒らせない柔らかい言葉で自分たちの意見や主張を伝えることが互いに必要なんだと思う。
正直、漫画家さんの方も頭に血が昇ってるなぁ、これ、とか論争に持ち込もうとしてるよなぁって思うところはあった。
もう争いが始まった時点でもう正しいとかどっちでもよくなってどっちかが死ぬまでみたいな話になってしまうし、そういう意味じゃ首をくくらせた側の勝利みたいにもなってしまう。
話を今回のタイトルに戻す。
(脱線し過ぎたり過熱しすぎるのは僕の悪癖です、ごめんなさい)
そんな一連の流れを見ながら聴いたBUMP OF CHICKENのカルマの2番の歌詞が個人的に刺さる部分が多かった。
存在が続く限り 仕方ないから場所を取る
ひとつ分の陽だまりに ふたつはちょっと入れない
ガラス玉ひとつ落とされた 落ちた時 何か弾き出した
奪い取った場所で 光を浴びた
まず、場所ってのは社会じゃないかなと。
僕らは好きだの嫌いだのはもちろんあって
主義も主張もそれぞれ違う。
そんで一人一人の個性をある程度は守ってもらえるような社会になりつつあるけど、
それなりにみんな辛いこともあったりするので往々に意見もある。
(ここでの意見ってのはもっとこうなって欲しいって願望だったり、これが辛いって悲鳴のようなものでもあると思ってます。)
そうなってくると、どうしても成長につれ体が大きくなるように、大きくなった意見同士は狭い場所ではぶつかりあってしまう。
そうするとどうしても強い意見、弱い意見ってのが出てきてしまう。
強い意見はマジョリティ(光を浴びること)になるが弱い意見はどうしても虐げられてしまう。
場所(社会)からはみ出したり、場所(社会)の中で弱い立場になる。
そんな風に感じた。
次の歌詞に移る。
数えた足跡など 気付けば数字でしかない
知らなきゃいけない事は どうやら1と0の間
ここでの数えた足跡は
お互いの意見の成長の歴史
ではないかと思う。
そりゃ、互いにバックボーンはある。
だけどそれを振りかざし合うのは違ってて
これから行うべきことは
違うことを認めて0と1の間のような自分達の意見を混ぜ合わせたり、折り合いをつけることが必要なんじゃないかと
一緒にその場所に居る為に。
そして曲はサビに入る。
初めて僕らは出会うだろう
同じ悲鳴の旗を目印にして
忘れないで いつだって呼んでるから
重ねた理由を二人で埋める時
約束が交わされる
ぶつけあってたのは互いの悲鳴でしかなかった。
だからこそムキにもなる、だけど辛いのは本当にお互い様なんだ。
いつだってお互いに辛いんだと。
そして、辛いのはお互い様だから頑張って耐えようって言いたいわけじゃない。
その辛い思いを少しでもしなくてもいいようにお互いにどうするかってのを考えてきちんと折り合いをつける(約束を交わす)のが大事なんじゃないかって。
次Cメロ
鏡なんだ 僕ら互いに
それぞれのカルマを 映す為の
汚れた手と手で 触り合って
形が解る
お互いの嫌なところを見合ってると
自分の悪いところや相手のいいところも解ると思うんですよね。
相手を見るだけじゃなくて自分も省みるべきだと。
そうやって自分をきちんと見て、相手もきちんと見よう、相手の意見をきちんと知り合おうとすることで初めて相手の形が解るって思うんです。
そうやってやっと譲り合い方も分かってくる。
正直ここまで至るのは難しいと思う、事実至れてない気がするし、でもこうやって解り合わないと僕たちは互いに苦しみあい続けるだけじゃないかと。
そして、大サビ
ここからはこうなれるとえぇなって願望です。
ここに居るよ 確かに触れるよ
一人分の陽だまりに 僕らは居る
忘れないで いつだって呼んでるから
同じガラス玉の内側の方から
そうさ 必ず僕らは出会うだろう
沈めた理由に十字架を建てる時
約束は果たされる
僕らはひとつになる
お互いの意見を解りあった後、やっと一人分の場所に二人で居れる。
一人分の席を譲り合って半分ずつ座るでもいい、なんなら膝の上に乗せるのだっていい。
譲り合うこと、解り合うことが互いの為になるんだ。
そうなることでやっとひとつの互いの意見が通る場所になるんだって思う。
過去の諍いに十字架を建てて忘れないように、繰り返さないようにして前に進んでいく。
お互いが苦しまないように手を取り合って進んでいける。
そんな場所に今度こそなるようにって、もう二度と争い合わないようにって。
歌詞からの引用と自分の考えは以上です。
結構苦しいところが多いし、なんやねんその解釈ってとこと、同じような言葉を繰り返してるやんけってなってて申し訳ないです。
とかく僕の言いたいことは
・意見のぶつけ合いを繰り返し続けるのは互いに苦しみ続けるだけなんやからある程度譲り合いは必要だろう?ってこと
・なんも解らずに互いの居場所をひとつの狭い社会とかで作ることは難しいからいいところも悪いところもしっかり相手のことを見つめて話し合うべきだってこと
です。
今回の表現の問題だけじゃなくて、色んな事に言える。
僕らは今互いに苦しめあってる。
監視し合って揚げ足を取って首を絞め合ってる。
その争いの場所にこの記事を書くことで乗ったようになる時点で僕も同罪なのかもしれないけど、その場所で撃たれるなら僕は喜んで誰も撃たずに撃たれよう。
とにかく哀しいすれ違いや、監視のしあいでこの堅苦しい社会が余計に苦しくなっていくことの方が僕はNOだ。
ひとつの家の中で互いの場所の主張をして争いエネルギーがあるなら増築する努力をする方がお互いに得じゃない?って強く思う。
(増築するスペースがないほどに成長してるのもわかる、ならある程度互いに肩を竦めて助け合うべきじゃないだろうか?)
またつらつらと長い上に堅苦しいのと
要点をまとめれてない、ぶっちゃけカルマ必要あった?みたいな感じで申し訳ないです。
この記事はここまでで終わります。
最後まで読んでいただきありがとうございました、ご意見、ご感想いただければとても嬉しいです。ではまた。