子供の頃、僕は喘息持ちだった。
小学校高学年くらいまで酷かったと思う。
3歳の頃、入院したこともあった。
今ではすっかり治っているがひどい風邪を引くと似たような症状が出る。
喘息が出ると吸入器と睨めっこして薬を吸引していた。
元々、外で遊ぶことよりも、本やテレビを見ることが好きだった僕は風邪になると、ビデオをかけてもらっていた。
その中で、風邪の時だけは見てはいけないビデオがあった。
志村さんの『バカ殿』だ。
盆、正月となると必ずやってくれる僕にとっての最高の楽しみ。
バカ殿が放送されるということは
毎盆、毎正月が盆と正月が一度に来るようなものに変わるくらいの最高のイベントだった。
盆、正月は大阪の祖父母の家に行ったり、親族が集まるという、それだけでもウキウキイベントなのにバカ殿の放送まであるなんて僕は小躍りしそうなほど、実際小躍りするほど喜んでいた。
ドタバタと動く志村さんの自由奔放さ
クワマンさんとの掛け合い。
柄本さんとのムチャのしあい。
舞台の仕掛け
にいつも爆笑していた。
3歳くらいの時は爆笑しておしっこを漏らしたり、
喘息なのにこっそりバカ殿を見て笑いすぎて症状があったら悪化して軽く死にかけたり
(それで余計に厳重警備されるようになった 笑)
生まれて初めての僕にとっての喜劇王は間違いなく志村さんだった。
志村さんはたくさんのことを教えてくれた。
季節に合わせた文化があること。
イタズラも度が過ぎるとしっかり怒られること。
楽しみの為にはやらなくちゃいけないこともあること。
それをおざなりにしたり、サボるとめっちゃ怒られること。
ダチョウ倶楽部はリアクション担当だということ。
フェミニストの人には怒られるかもしれないけど、お色気を教えてくれたのも志村さんだった。
小学4年くらいに、
夜中にやってた志村けんのだいじょうだぁを見て、そのシニカルさや、ちょっぴり大人の笑いを理解出来なかった僕も居た。
今となってはおじさんの悲哀や世知辛さがあってブラックだけど面白い。
僕が酒の味を覚えてからは、
派手な夜遊びエピソードや粋さ、細やかな気遣い、男前なエピソードを読み漁ったりして、
面白いおじさんからカッコいい「男」の人に印象が変わっていったのも覚えている。
東京に行くことは少ないけども、
僕の好きな小説「夜は短し、恋せよ乙女」みたいに東京の夜をフラフラと練り歩いていたらふと出会えそうな(銀座とかで遊ぶだろうから今の僕には手が届かなくてありえないけども)
出会えたならば、めちゃくちゃ熱苦しく話してしまいそうな、でも、志村さんなら許してくれちゃうかもな、って甘えた気持ちと思いを抱いていた。
そんな風に僕の人生で笑いや悲哀、粋さを教えてくれた人だった。
大好きな父方、母方の祖父とバカ殿をよく見ていたことから第3の祖父や親戚のおじさんのような感覚さえあった。
そんな人が亡くなった。
万に一つもないだろうが実際にお会いすることや、舞台を見に行くことがもう出来ないのが悔しくてならない。
流行病で亡くなって、誰も触れることやご遺体を見ることさえ出来ないなんてあまりにも酷過ぎる。
昨日は悲しくて、やりきれなくて、早く布団に入った。
いまだに不完全燃焼なままだけど、
笑ってないと志村さんが悲しむよって色んな人の意見を目にしたから自分なりに
こんな風に文章に起こしたり、
見てもらえるはずなんてないけどちょっとふざけて消化してみる。
どんな形で亡くなっても絶対に寂しくて仕方ないだろうけど最後まで元気な姿しか見せなかったのはどこか志村さんらしい気もする。
けどやっぱ寂しくて悔しくて仕方ない。
今日はテレビ千鳥で大悟が究極のレモンサワーの割り方を探す回でやってた、志村さんの割り方でレモンサワーを飲んで志村さんに献杯しようと思う。
おやすみなさい喜劇王、大好きでした。